信濃.飯嶋家800年の歴史.別編2

上赤岩村飯嶋家について! 上赤岩村飯嶋家は初代、飯嶋久左衛門(1559~1642)永禄2年生から寛永19年没83才で す。 通称名は久左衛門で、幼名は千代松です。 2代~4代までは三左衛門になっています。 諱は蔵という字を使います。 墓石に久蔵や忠蔵などわかります。 上赤岩村は江戸初期は岡部長盛の領地で寛永2年に国替えで 幕府直轄領になりました。 代々世襲名主で天保の頃は総代名主を 務めて苗字帯刀御免を許されました。 松伏村大総代名主、石川民部家や岩槻藩 武士、逸見家など親戚があります。 昔は四条村飯嶋家とも親戚付き合いして いたそうです。 甲斐武田家の所縁がある千葉県松戸市本土寺にお金を寄付した古文書もあります。 松戸本土寺には武田勝頼公と武田信吉公の位牌や武田信吉の母、 下山殿(穴山信君の娘)のお墓もあります。 上赤岩村飯嶋家は云い伝えでは信州(長野県)から来た?との事です。 祖父の話しでは昔は長屋門あり現在でも駕籠も残っています。 刀もあったそうです。 結論、予測なのではありますが初代飯嶋久左衛門は甲斐武田家の下級武士(半農半士)と して仕えて、武田家が滅んだ後に徳川家康にしたがって関東に来て何らかの理由に武士 を棄て名主になったと思われます。 徳川家康が関東入国の時に上赤岩村は岡部長盛の領地になっています。 岡部長盛は元甲斐武田家の家臣です。

信濃、飯嶋氏800年の歴史.別編1

信濃、飯島氏と関係があるかも知れない埼玉県飯島家。四条村飯島家は忍藩領に属して名主役を努めていました。初代、飯嶋久兵衛儀光(慶安没)と云い代々通称名、久兵衛と名乗ってました。諱は光です。1代だけ丘兵衛と名乗りました。代々、四条村名主を努めていました。文政6年に忍藩より割役名主を任じられ見田方領の代官として苗字帯刀を許されました。また、親類には金崎村石川家、花栗村新井家、瓦曽根村秋山家など元武士の家柄と親戚になっています。墓地には宝篋院塔が残っていて、元武士の家柄と分かります。元お屋敷には門が2つあり、それ相当の力があった家と分かります。分家には明治頃に近衛兵へ入営された方がおり、墓志録には有栖川宮殿下より歌詞を下賜されました。上等兵除隊。推測ですが、四条村飯島家は甲斐か信濃にいて武田氏に武士として仕えて、そのあと徳川家康に従って関東に来て武士身分のまま名主になったと思われます。信濃飯嶋氏は久を使った通称名を何代かおりますので四条村飯島家も何らかの関係があるかも知れないです。これから、さらに調査していきます。

信濃、飯嶋氏800年の歴史.1

飯嶋氏とは信州(長野県)伊那地方に清和源氏の末裔、片桐氏より分かれ飯嶋郷に城を建てて飯嶋氏と名乗る。初代、飯嶋(片桐)次郎太夫為綱。2代、飯嶋為光(太郎)は鎌倉幕府に従って承久の乱に出陣し6番目に敵陣に乗り込む。承久の乱による恩賞により出雲国(島根県)三澤郷を賜り6代、飯嶋為長が出雲に行き三澤氏と名乗る。三澤氏の末裔には仙台藩4代藩主の母、三澤初子がいます。時代は流れ戦国時代になると甲斐、武田氏の家臣となり春近衆50騎と呼ばれ先陣を努めていました。深谷飯島家文書によれば、飯嶋氏は代々武田氏の客将なり、と書かれてます。武田勝頼公の代になり織田信長が甲斐武田氏討伐に乗りだし、15代飯嶋民部は始め大島城にいましたが、武田信玄公の(弟)武田信廉を守り、高遠城に入ります。しかし、武田信廉は甲斐へ行きます。高遠城の城主、仁科盛信に従って飯嶋民部、(弟)小太郎は籠城します。武田武士の意地を見せる為に高遠城主仁科盛信(勝頼弟)、小山田備中守、飯嶋民部兄弟は織田軍に包囲されますが何度も攻防戦して城主仁科盛信を守る為に飯嶋民部兄弟が盾になり討ち死にします。その後、本能寺があり信濃は徳川家康の領地となります。そして、第1次上田合戦(真田昌幸)との戦いへ徳川方に出陣して飯嶋辰千代が討ち死にします。江戸時代に入り、飯嶋(梶)与右衛門は彦根藩井伊直滋の剣術指南役を努めましたが、直滋は(父)井伊直孝に勘当されま...